HOME > わたしたちの声 > わたしたちのストーリー > Vol.5 みーさん

 

育ちなおした9年間…
これからは、症状ではなく、言葉を使って生きていく

9年という歳月は、必要な歳月でした

29歳のときに依存症の専門病院につながってから、9年をかけて少しずつ成長してきました。はじめて生まれ、安心して育ちなおしたという感じです。
最初の2年半は閉鎖病棟、さらに4年の入院。その後病院付属のリカバリー施設2年半を経て今年の3月から一人暮らしを始めています。

今から思えば長いなあと思うけれど、私にはそれだけの病院での生活が必要でした。虐待のある家庭の中で、29年間、ひとりぼっちで、 症状を杖にしながらなんとか生き延びてきたあの状態を思えば、9年は決して長くはなかったと思います。

持っていた症状は、アルコール、過食と拒食、下剤乱用、薬物、買い物(借金)、ギャンブル、男性依存、自傷行為、自殺企図、そして解離性同一障害(多重人格障害)です。今は、人格交代はなくなりましたが、食べ方がおかしくなることは度々あります。

暴力があることで、小さな頃からいつも家の中は切迫した息苦しい雰囲気で、ホッとできることなどありませんでした。
あるとき、冷蔵庫を開けてチョコレートを一つ口にすると、身体全体が緩んでいくような安心感を覚えました。ほわーんとして、甘いなあって。5歳くらいのときだったと思います。それが、過食の始まりでした。それから、ホッとしたいときには無意識に食べ物を手にとるようになり、40キロから125キロ を行ったり来たりしました。ほかの人が一定の体重でいるのが信じられませんでした。

解離という症状も、その心情のプロセスは依存症と同じように思えます。生きること、この世界全体、人…すべてが怖いものだらけで、症状の壁で自分を守っていたんですね。いつもニコニコしているのに急につながりを切ってしまうのだから、それは人も自分も大事にしていないやり方です。

でも、壁の中の私は寂しくて寂しくてたまりませんでした。壁の中からは周りの人の思いが伝わらないし、中の私の声も外には届かない。 だけど担当のワーカーさんは、決して出て来なさいとは言わずに、壁を必要としている私を尊重して、根気強く側に居続けてくださいました。居続けることで、 ここは大丈夫だよ、安全だよと伝え続けてくださいました。

私には、食べたいと死にたいしかありませんでした。入院してしばらくは死にたい、食べたい、わかんないの三 つしか言葉がなかったのです。そしてそこに怖いという言葉が加わりました。次々とみんなが退院していくのがとてもうらやましかったし、焦って苦しかった。 鉄格子の中から、一生出られないと思っていました。

虐待のある家の中で

父はアルコール依存症で、お酒を飲んでは暴れるような人でした。3歳の頃から父の性虐待を受けていて、6歳からは兄弟からも受けるようになりました。私の過食(肥満)の奥には、女性として生きることの恐怖というものがあったと思います。

お酒を飲んで暴れる父が怖くて、どうしようどうしようと思いながら生きてきましたが、家を離れられませんでした。小さな頃から、母をかばいながら、母のために生きてきました。そして、母から離れたくても離れられなくなっていったのです。私の真ん中に私が居るのではなくて、私の真ん中に母がいる感覚が身についていったのでした。

母は人に罪悪感を植え付けるのがすごく上手でした。わざとではないとは思うのですが、私のために生きなさいオーラが出ていて、私は常に胸を締め付けられるような罪悪感に囚われていました。
憎むだけなら離れられるのに、愛しいという気持ちも強くある。憎いと愛しいが混在して、混乱して、とっても苦しかったです。母のそれは真綿で首を絞めるような巧みさでした。私から離れては駄目、私のために側にいなさいという巧みなオーラです。

そしてこれは虐待家族の特徴と言えると思いますが、自分のつらい胸の内や、大変な目にあっていることを誰にも言えませんでした。外には出さない。助けてって言えない。人を信じる力がだんだんなくなっていって、小さい頃から、太っていて、そしてニコニコ仮面でした。
公園でブランコに乗りながら、このままあの空に飛んでいけるかなぁなどと空想していたことを覚えています。

もう、おかあちゃんじゃ駄目なんだ

入院する前、お酒も薬も過食もあってぼろぼろで、仕事も辞めて家に居たとき、27、8歳の私が「おかあちゃんのところに行こう」って母の布団に潜りこんだことがあります。でも逆に怖かった。びっくりしました。もうおかあちゃんじゃ駄目なんだ、おかあちゃんじゃ安心しないんだと感じました。おかあちゃんが良かったんだけど、おかあちゃんじゃないのだと。

入院してからしばらくは、一日に何十回も母に電話をしていました。素の自分じゃ怖くて、解離して、3歳や5歳の人格になって話しました。母の思い通りの私じゃなければ受け入れてもらえないという怖さです。それでも、かわいいねって言って欲しくてたまらなかった。おかしなことに、受話器の向こう側の母もその幼い私と話をするんです。変ですよね。「みーちゃんだよ~!」「ああ、みーちゃんかぁ」って。
ワーカーさんから、いまのあなたで話すなら電話をかけていいよって言われても、どうしてもできませんでした。一度、ワーカーさんに「くそばばあ!って言ってやりな」って言われて(笑)、言ってみたけど、本当に本当に怖くて、叫ぶのが止まらなくなりました。その後、薬を処方されて寝た覚えがあります。

今は母から物理的に離れて暮らしていて、その距離があるからなんとかやっていけています。でもやっぱり、精神的に距離が近づくと、気がつけば母に囚われていたり、母を喜ばせてあげたくなるわたしがいます…。
真ん中に居る母を離していく作業には、とても長い時間がかかるものですね。

母を手放す道のり

去年、母に「わたしとおかあちゃんは別々なんだよ」って始めて言えました。
ずっと言えなかったセリフです。 一人じゃ無理でした。みんなに助けてもらったからこそできました。

母はまだパワフルで、命をかけて私を引き寄せようとしますが、でも、私が思う私の幸せと母が望む私の幸せは違うんですよね。私と母は別の人間なのですから。母はわかっていなかったみたいです。「人なんか信じたらいけん。だれも助けてくれんのだから。」と言っていました。「私は人を信じたい。人に助けてもらって、ここでやっていく。」でも母には理解できない。

暴力をふるう父の元で、母もつらかったのだと思います。でも、そこに居続けることを選んだのは母です。助けたい、すごく助けたいけれど、でも、私はそうしませんし、できないのです。私には私の道があって、母の人生を生きることはできません。私が、母を手放して行くのです。
70歳を過ぎて人のことを信じてはいけないだなんて、寂しいだろうなあと思います。母も大変だったんだろうなと思います。とても哀しい。
でも、その哀しさも、私は抱えながら生きていくのだと思っています。

「おかあちゃんじゃダメなんだ、これはダメだ」と頭で考えようとするだけでは難しかったです。ワーカーさんや先生、仲間、信頼できる人たち、いま目の前にいる人たちや場所とつながっていくこと、信じていくこと、ここは、この人は大丈夫なんだと感じていくことが必要でしたし、知識や情報や、新しい考え方も知る必要がありました。

中でも、AC(アダルトチルドレン)という言葉とその概念は、新しい価値観を築いていく上で、大きな道しるべになりました。おかあちゃんはダメだから離れなさいだけだったら、死んじゃってたかもしれないと思います。見捨てられることへの恐怖がものすごく強かったんです。

今は、普段の生活で親のことを考えることはほとんどありません。自分の生活が一番大事だと思えていますし、それで精一杯です。 ほんとに、よく生き延びたなあと思います。

いま、そして将来

いまでもしんどいと食べ方が崩れるけど、信頼できるひとたちに助けてもらいながら、そのしんどさを過食ではなくてほかの行動で補うように心がけています。ダイエットを始めるとのめりこんでしまうから、もうしません。というか、できないんですけどね(笑)。入院時は薬の量も凄かったけど、今は飲んでいません。

毎週一回、性トラウマサバイバーの自助グループに出ています。自分の体験を今苦しんでいる仲間に伝える機会も与えていただきました。来年か再来年には結婚もしたいなぁ。子どもを産むか産まないかっていう選択も出てきますね。

昔は、子どもを見たら殺意を覚えるくらいでした。自分のことを憎んでいましたし、生まれてきたみーちゃんのことを憎んでいました。虐待を受けた母が子を虐待する気持ちがよくわかりました。今は、欠点だってあるけれど、自分のことが好きで、同時にみーちゃんのことも好きで、とっても愛しいです。子どものことはパートナーと相談をして考えようと思っています。

自分を大事にできないときは、自分を大事にしてくれない人と一緒に居たなあと思います。でも今は、私のこと を大切にしてくれる人と出会えました。彼も生きづらさを抱えているけれど、息もできないくらいにくっついてしまうときは「ちょっと離れよう」って言葉で言 うようにしようって約束しています。態度や行動ではなくて、何度でも言葉で伝え合うように練習しています。

最近、仕事を探し始めました。もともと看護師だったので、講習を受けながらブランクを埋めて、少しずつ試してみようと思っています。
いつかは性暴力被害者支援をしたくて、性暴力がどういうメカニズムで起こって、被害者にはどういう症状が出るか、どうやって回復していくかなど勉強しています。

一年間講習に通ったのですが、自分がサバイバーと言えず、支援者でもないというところで、つらい一年でもありました。でも、たくさんのことを教わりました。
人とつながっていくことの大切さや、回復の手立てにはいろんな方法があるということ。その人にあった方法を見つけていくんだろうなと思います。正しい間違いはないんですよね。その人が一生懸命悩んで考えて試したことなら、誰にも責める資格がない。そういった試行錯誤の中で、自分にあった方法を見つけていくお手伝いができたらなと思っています。

自分の真ん中に自分を、そして“今”を生きる

例えば自助グループというやり方があわない人もいて、でもそれはダメなことじゃないんですね。この方法が合 わなかったら今度はこっちを試してみようって、かすかな希望とともに見つけていけばいいのだと思います。

私も、自助グループにはずっと出られませんでし た。太っている自分が嫌で、人が怖くて、孤立感があって、仲間の体型やファッションと自分を比べてつらい気持ちになるからです。

入院している間、自助グループにはほとんど出ていません。ワーカーさんや、ほんの一部の人とだけ話しながら回復してきました。今はなんとか、前はできなかったことができるようになってきました。自助グループにも出られるし、夜につらくなったら助けを求める電話もできる。

私が病院で教えてもらったのは、「自分はどうしたいのか」で行動していいということ。ずっと母がどうしたいかを考えてきたから難しかったけど、でも、いつも自分の真ん中に自分が居るようにしていたいです。今は、自分の真ん中にほかの人が居るときはそれに気づけるようになって、気づいたら、いやいや違うぞと思えるようになりました。

過食だって、必要なときは必要なのだと思います。食べ方の問題は生きることの問題だから、人それぞれの方法でやっていけばいいのだと思います。
具合が悪いときはどうしても、みんなができてることができない自分はダメなように、思っちゃうんですよね。 でも、今過食を必要としている自分を責めないこと、優しくしてあげること、ゆっくりゆっくりだよって。

私は回復するために生きているのではありません。
いつか訪れるはずの幸せのために生きているのでもありません。
今の自分、今与えてもらっている人や場所、今を感じて生きていきたいです。
どうしても過去を考えてしまったり、不安が募って混乱することだってあるけ れど、今を生きたいのです。このわたしでなんとかやっていけるだろうっていう、やわらかいものが、 わたしのなかに今はあります。

この前ワーカーさんにつらいことの話を始めたら泣けてきたことがありました。彼女は「あなた、泣けるようになったんだね」って喜んでくださいました。泣いてるのに喜んでた(笑)。
昔は自分のつらいことを笑いながら話してたんです。みんなに見守られながら、助けられながら生きている安心感はかけがえのないもので、生きててよかったなと思います。

言葉を杖にして…

私は、症状がなければとっくに死んでいたと思います。切実に必要なものだった。症状はつらかったけど、症状がなかったらもっとつらいことがあったし、症状を支えに生きてきたんだと思います。
それは私にとって杖みたいなものでした。あの杖を使わないと居られないくらいに、ひとりぼっちでした。ひとりぼっちで子どもの頃から生きてくるためには、食べ物が必要でした。

過食や解離…、以前はその時その時に出るそれらの症状自体が私という感じがしていました。それはまるで、部分部分で、バラバラで生きているかのような感覚です。
でも、今は違います。過食も、解離も、過去も、トラウマもACも、それから陶器が好きなことやコー ヒーが好きなこと、こういう事々をすべてひっくるめて丸ごとが私という感覚で生きています。
つらいこともあるけれど、心地よい私だって居る、感じられる。

そろそろ、ほかの方法で生きていきたいと思っています。症状じゃない方法で生きていきたい。症状は支えだったけれど、一方でわたしを苦しめもしました。だから今は生き方を変えようとしている時期です。自分とひとを傷つける方法じゃなくて、言葉で、言葉を使っ て、人とのつながりの中で生きていくのです。

新しい生き方になじむまで時間がかかるけど、これが私のペースです。途中でしんどくなっていじけてしまうこともあるけれど、そういう時も言葉で人に伝えられるようになりました。「いま反抗期だからいじけてるの!」って(笑)。今の目標は、やわらかく気楽に生きてみること、低空飛行ができることです。

最後に、性虐待を生き延びたみーちゃんに、なかまに伝えたいことばです。『あなたは悪くない。あなたは汚くない。』どうしてもそう思えない日々が、長く続くかもしれないけど、なんとか生きていてほしい。過食を解離を使ってまで、必死に生き残ってきた自分を、愛してあげたいです。どんなに自分で自分を痛めつけても、なくならなかった、わたしのなかのいのちのげんきだま。大事に抱いてあげよう。

(2009/8/15 取材・文 あかりメンバー いづ)

 

プロフィール/発症からいままで

みー(38歳)

性暴力のサバイバー。クロスアディクション。
26歳から現在まで、治療中心の生活となる。29歳から依存症の専門病院に6年半入院。父はアルコール依存症。父、兄から性虐待を受ける。家の外でも、レイプの被害に遭う。親のDVを見て育つ。
吐けない過食症で、幼いときから肥満だった。いつも明るく、よく気がついて、にこにこして元気な子。優等生。25歳まで、看護師として働くが、症状がぐちゃぐちゃになり退職。長い間、過去に囚われて死にながら生きてきた。
いまやっと、時が動き出し、いまを、自分を生きていると思う。長い間、混乱と緊張のなかで生きてきたので、いまのおだやかさを、大事に守っていきたい。将来は、性暴力被害者を支援する専門看護師として働きたいと思う。
まずは、看護師としてもう一度白衣を着たいと、就職活動中。ブランクも長いが、たくさんの経験が、わたしの力になって、まるごとのわたしで昔よりいい看護ができると、大変だけど楽しみにしている。 

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