HOME > わたしたちの声 > わたしたちのストーリー > Vol.6 いずみさん

 

「自分は、なぜ生きているんだろう」と考えながら、吐いていた

中学2年、軽い気持ちのダイエットから始まった

摂食障害の症状は、中学2年生のときから始まりました。摂食障害になったきっかけは?と言われると、特にいじめられていたわけでもないし、トラブルを抱えていたわけでもありません。友達も多いほうで、学校にも楽しく通っていました。

ただ中学ぐらいになると、誰もが人からどう見られるかを意識するようになりますよね。自分をよく見せたいとか、男の子の視線が気になるとか…。
私もそんな時期にさしかかり、それまで明朗快活で、ちょっぴり太めだけど気にしないって感じだったのが、中学になってから少し痩せようかなと思うようになり、それで軽い気持ちでダイエットを始めたんです。そうしたら簡単に痩せることができ、それでみんなに「かわいくなった」って賞賛され、彼氏までできちゃって…。

「やせると、いいことある」って味をしめてしまったのです。
きっかけは安易な気持ちのダイエットでした。そんな何気ないところから入って、思いがけず、根の深い病につながって抜け出せなくなったのです。

私の場合、ダイエットして痩せてから、しばらくすると反動で過食に走るようになりました。高校に入ってからの3年間は過食症でした。その時期は吐く行為はしてなかったのですが、高校卒業後、横浜の専門学校に進学することになり、ひとり暮らしを始めると過食後に吐くようになりました。

当時、一回に食べていた量を具体的に言うと、定職屋で定食と丼を食べて、その足で次の店に行ってラーメンとチャーハンを食べて、その後、コンビニに寄って菓子パンいくつか買って家で食べるといった具合。毎日がそんな食生活でした。だから、とにかく食費がかかって、バイトを掛け持ちしないとやっていけなくて、朝から深夜ま で働きづめでした。

水をがぶ飲みして、最後まで吐いて、さらに下剤を20錠…

たぶん、食べているときは、すさまじい形相でガツガツ食べていたと思います。食べ物を手当たり次第に食べ、食べ散らかす感じで。前半は味もちゃんとわかっているんだけど、中盤から後半にかけては、まったく味わってない。何も感じず、ただ吐くための詰め込み作業でした。とにかく胃袋のいっぱい、いっぱいまで、食べ物を詰め込んで、吐くために詰め込んで…それは、とても空しい行為でした。

でも、狂ったようにガツガツ食べつつも、意外と冷静なところもあって、食べた順番をちゃんと覚えているんですよね。最初にわかめうどんを食べたなら、ちゃんとわかめが出てきたか、すべての食べ物が順番どおり吐き出されたか、それを確認しなきゃ気が済まない。少しでも胃の中に残っていたら、自分のお肉になってしまう。そう思うと耐えられませんでした。
それで吐き終わった後は水をがぶ飲みして、胃を洗浄して、最後の最後まで吐ききって、胃袋をすっからかんの状態にするまで吐くんです。吐くときは指を突っ込んで吐くから、指に「吐きだこ」ができていました。
それでもまだ終わりじゃなくて、最後の仕上げに下剤を20錠ぐらい飲んでいました。…異常ですよね。
もう、おなかはピーピーで、トイレに入りっぱなしの状態です。

食べているときは無我夢中で、食べること以外、何も考えていませんでした。でも、吐いているときは、意外と哲学的なことを考えていたように思いま す。哲学的っていうのは、「自分はなぜ生きているんだろう」、「自分って何者なんだろう」みたいなこと。当時はそういうことをいつも考えていました。
でも、考えても考えてもわからなくて、苦悩していました。

食べ吐きをすることで、自分のバランスをとっていた

食べ吐きの原因は、最初はストレスだったかも知れません。でも、途中から卵が先かにわとりが先か、みたいな感じになって、ストレスが原因で食べ吐きをしていたはずが、その内、食べ吐きをしている行為自体が恥ずかしくて、それをやめられない自分が嫌いで、その嫌悪感から逃れるために、また食べ吐きをして…という悪循環にはまっていました。

今思えば、食べ吐きはストレス解消というよりも、私にとっては浄化作用みたいなものだったのかもしれません。異常な状態でしたが、食べ吐きをすることで、自分を正常な状態に保っているというのか…。昼間、仕事で嫌なことがあっても、夜、思い切り食べて吐いてやろうと思えば踏ん張れました。

「くそっ」と思っても、人前で取り繕って笑顔を保つことができたのは、夜中の食べ吐きがあったからです。私はどんなにストレスためていても、人前では「いい子 ちゃん」でいたいタイプで、いつも笑顔で人と接していました。何か悪いことがあったら、人を責めないで、自分を責めるほうでした。
それで「やさしいね」と 人から言われるのですが、私は当時、「やさしさというのは、弱さであって、ちっともいいことじゃない」と思っていました。だって表面的には人に譲りながらも、心の中ではいつも「自分が、自分が」という思いがありましたから。

でも、それとは裏腹に人を傷つけたくないから、自分が我慢すればいいんだという気持ちもあり、主張したいという思いと、自分を抑えることの間で、いつも葛藤していました。
もう少し自分の意見を言えたり、わがままを言うことができたら、夜の食べ吐きの作業をしなくてもよかったのかも知れません。でも当時は食べる場所は私にとって最後の砦で、食べ吐きをして浄化することで、必死に自分のバランスを取っていました。

だから摂食障害の人が、急に食べることや吐くことをやめるのは、危険だという人もいます。バランスが崩れて、余計に調子が悪くなる人もいるそうです。私の摂食障害の友達で、自殺した子がそうでした。摂食障害の症状がなくなってきていて、「最近、食べ吐きしてないんだ。調子いいのよ」と言っていた矢先に自殺したんです。彼女が死んだとき、身を切られるような思いがしました。

自分を否定する限り、苦悩はついてまわる

太ったら生きていけないという思いがありました。痩せていてスタイルがよくて、風を切って街を闊歩している女性。そういう姿にあこがれていました。
でも、本当は太っていても風を切って街を闊歩することはできるし、太っていようが素敵な人は素敵なんですよね。私はそのことに、なかなか気づけません でした。

人から賞賛をあびたいと思っていました。舞台の真ん中でスポットライト浴びる人の人生に価値があると思っていました。でもスポットライトの中央で輝いている人には、それなりの苦労があって、私がそこを目指しても幸せにはなれないということが、だんだんわかってきて…。
それよりも主役を引き立てる バックダンサーだけど、今日終わったら友達とラーメン食べにいこうとか、仕事早く終わって家でテレビみたいなぁとか、ちょっとサボりながら踊っているポジ ションのほうが気楽でいいなと思えるようになりました。

ありのままの自分でいて、何気ない生活を楽しめるほうが、よっぽど人間らしくて幸せなのだと。「ありのままでいい」と思えるようになってから、だんだんラクになりました。結局、ありのままの自分を認めない限り、逃げても逃げても、逃げ切れないんですね。当時は泥沼から抜け出したくて、住む場所を変えてみたり、仕事を変えてみたり、男を変えてみたり…、いろんなことを試しましたが、抜けられませんでした。
結局、自分を否定し続ける限り、苦悩はついてまわるんですね。

大きな挫折を経験したからこそ、自分の人生観が深くなった

「底つき」を経験した入院生活、自分と向き合うしかなかった

東京でのハードワークと過食嘔吐の生活に心身ともに疲れ果て、23歳のとき、金沢に帰り、地元の精神科の病院に入院しました。入院生活は強制病棟ではないので、何の規制もなく、自由な時間が与えられていました。
人と会わなくてもいいし、仕事もしなくていい。3食決まったカロリーの食事が出てきて、食事の片付けもしなくていい。そんな気楽な環境に身を置きながら、食べ吐きをしたいという衝動はいっこうに収まりませんでした。

入院前の生活はストレスだらけで、 「お客さんに嫌なことを言われた」とか、「今日は仕事がハードだった」とか、食べ吐きをする理由はいくらでもありました。でも、入院した今は何の理由もないのに、それでもやっぱり食べ吐きをしたいのです。それで病院を抜け出して食べたり、売店で大量に買ってきて食べたり…。食べたいという衝動に勝てない自分がいて、改めて私は病気なんだと自覚しました。

そして時間だけが膨大にある入院生活で、ちっぽけな自分と向き合うしかないと覚悟を決めました。その時期が一番つらかったです。いわゆる「底つき」を経験しました。

担当医だった院長は強い信念のある人でした。患者の声に耳を傾け、一緒に共感してくれるといったタイプではなく、時に厳しい言葉を投げかけられることもありました。相性もあると思いますが、私にとってはそれが良かったのです。
当時の私は「ああ言えば、こう言う」というタイプの患者でした。今思えばですが、自分の症状を手玉にとって、「死ぬ」とか「吐いてやる」とか「あんたのせいだ」とか言いながら、周りをコントロールするのが上手なタ イプだったのです。それで相手がブレると、自分もグラついてしまうのです。だから患者に振り回されることなく、毅然とした態度で接してくれた先生に今では感謝しています。

摂食障害の記録をノートにまとめたら、頭の中がスッキリ

また入院中、自分の摂食障害の記録をノートに付け始めました。自分のグチャグチャした思いを書くことでぶつけ、過去の食べ物を買った時のレシートやスケジュール帳の走り書きなどを残していたので、それをノートに貼り付け、今までの軌跡をまとめました。
その作業は頭の中のグチャグチャを整理し、引き出しにしまうような行為でした。「私の摂食障害の歴史はノートに記録された。もう頭の中に留めておかなくていい」。そう思うと、不思議とスッキリして、頭の中に 新しいスペースができました。その空いたスペースでまともなことを考えられるようになった気がします。

あと、自分に自己暗示をかける努力もしました。食事の時間が終わった後、まだまだ食べたい欲求が収まらない時、「おいしかった。ごちそうさま、満足です」という言葉をひたすら繰り返しました。
もう明日の朝食まで我慢するしかなく、布団をかぶって寝るしかない時も、ウトウトする意識の中で「おいしかった、ごちそうさま、満足です」と何度も繰り返しました。3つの言葉を潜在意識に刷り込ませようという思いで、必死だったのです。

また振り返れば、摂食障害だった頃の自分は、ピカピカの虚像のビルに住んでいるようなものでした。プライドが高くて、見栄っ張りで、外からどう見られるかばかり気にしていました。
それがある時、虚像のビルがガラガラと崩壊してしまい、ガレキの山だけが残ったのです。それで仕方がなくガレキのかけらをかき集め、もう一度、等身大の自分らしい家をつくることにしました。少し積んでは崩れ、また少し積んでは崩れ、それでも諦めずに積み重ね、ようやく自分 に合った家を完成させることができました。その家は見た目は野暮だし、立派な家ではないけれど、いつでも人を招くことができ、格好つけずに「散らかっているけど、どうぞ」と言える家でした。
おしゃれな虚像のビルに住んでいたら、自分に必要のない人まで寄ってきて、そこで無理して「いい顔」をして、結果的に 疲れてしまうのです。虚像のビルより、等身大の今の家のほうが、よっぽど居心地がいいことに気づきました。

自助グループ「パインの会」立ち上げが、回復の道につながった

また回復への大きな転機となったのは、入院中に「パインの会」という自助グループを立ち上げたことです。当時、病院には10人ほど摂食障害の患者がいたの で、その人達に「自分たちの思いを安心して話せる場をつくろう。そして同じ仲間同士、乗り越えていこう」と呼びかけ、週に一度、病院の食堂に集まりまし た。

会合では、それぞれが自分の思いや体験を打ち明け合ったのですが、自分と同じような症状を持つ仲間たちがいると思うと、自分ひとりではないという安心感が生まれ、互いに励まし合うことができました。そして仲間たちの話を聞いていると、「それでいいじゃん」と受け止めてあげたい気持ちになり、「大丈夫だよ。気にすることないよ。そのままの自分で充分だよ」という肯定的な言葉を伝えることができました。

不思議なもので、自分のことは認められないくせ に、仲間のことは認められるんですね。それで仲間に肯定的な言葉をかけていたのですが、その言葉が無意識に自分の心の奥にも響いていたようです。仲間を励ますつもりが、実は自分が自分の言葉によって癒され、励まされていたのですね。自助グループというのは、そのような効果も期待できるようです。

「パインの会」は私が退院した後も、病院の食堂を借り、継続して行いました。約束の時間に誰も来てくれなくて、ひとりぼっちの時もありました。それでも「今日は誰か来るかも知れない。自分で決めた以上、必ず約束の時間に行こう」と心に誓い、雨の日も風の日も、食べた日も吐いた日も 「パインの会」に足を運びました。

それは自分自身への信頼の回復のプロセスでした。ひとつのことを継続的に行うことが、社会復帰の自信へとつながる糧となったのです。
やがて過食嘔吐の症状は少しずつ良くなっていき、26歳の頃には、ほぼ完治していました。

「幸せとは何か?」と聞かれたら、誰かを幸せにすることじゃないかと

回復から、10年以上の月日が流れました。今は結婚して、3人のお母さんになり、毎日子育てと仕事に追われ、忙しく過ごしています。昔、地獄のような日々を送っていたことなど、今の私を知る人は、たぶん想像もつかないでしょう。

「幸せとは何か?」と、いつも考えていました。幸せの意味もわからなかった10代、幸せになってはいけないと思っていた20代。こんな自分でも幸せになってもいいんだと、思えるようになった30代。
そして、今は「幸せとは何か?」と聞かれたら、自分以外の誰かを幸せにすることじゃないかと思います。夫や子ども、愛する家族の喜ぶ顔が見たくて何かしている自分。周りの人たちの幸せを想っている自分。そういう状態にある時、心が満たされている気がし ます。

もし摂食障害になって良かったと思うことがあるとしたら、今の心境に到達できたことでしょう。大きな挫折を経験したからこそ、見えてくるものがあ ります。生き難く、生きていくのに理由が必要だった私。何のために生きるのか、ずっと探し求めていた私。幸せのあり方を模索し、散々もがき続けたその結 果、自分の人生観が深くなったような気がするのです。

(2009/12/4 取材・文 ライター  佐々木淳子)

プロフィール/発症からいままで

いずみさん(36歳)

石川県金沢市出身。中学2年のとき、軽い気持ちでダイエットしたことから、摂食障害の泥沼に入っていった。高校に入るとダイエットの反動で過食症になり、 卒業後、横浜の専門学校に進学してからは、過食後に吐くようになる。23歳のとき、心身ともにボロボロになり、金沢に帰って入院。その後、摂食障害の自助グループに参加するようになり、少しずつ回復のプロセスが始まる。26歳の頃には、ほぼ完治。
症状がなくなってから10年になる。現在は結婚し、3人の子どもの母親でもある。