トップ >> 摂食障害経験者の声 >> 摂食障害体験談 ~Vol.10紗江さんの手記

体験談 ~Vol.10 紗江さんの手記

おわりに、もう一度家族を

 いつからなのか判らない。私は、私と両親、私と姉の間に、深い溝を感じていた。底がどこまであるのか判らない、深くて暗い溝の存在を。

 両親と姉は言う。

「家族なんだから、迷惑をかけてもいいんだよ。気を遣わないで、思ったことを言っていいんだよ。家族なんだから。」

 でも、と私は思う。

 「家族とはいえ、守るべき最低限のルールがあるんじゃないの?家族とはいえ、遠慮が必要でしょう。時には。」

 私は祖母に育てられた。

 十代で結婚した母は、翌年姉を、21歳の時に、私を出産した。母は、姉と、生まれて間もない私を祖母に託し、お勤めに出た。とり立てて珍しくもない、ありふれた話だと思う。けれど、私は、3歳の時まで、自分を男だと思って育った。青色や緑色の服を着て、自分のことを「ボク、ボク」と言っていた。髪を短く切り、紺色の長袖長ズボンで走り回っている、当時の写真が残っている。逆に姉は、赤色の服を着せられていた。保育園に入り、否応無しに「女の子の」赤色の帽子を被せられた私は、強烈な違和感を感じて困惑した。毎日のように保育園でおもらしをし、毎日のように「行きたくない」と泣き喚いた。大げさかもしれないが、それは、生きて行く上での根幹にかかわる闘いだった。それまで信じてきたことを、180°転換させなければならなかったのだから。

 兄弟がいる人は、誰もがそうなのかもしれないが、私は、姉に対抗意識を燃やし、姉より秀でた人間になろうとしていた。読書、お絵描き、お習字・・・4つ歳上の姉には、勉強で勝てるはずもなく、私は、それらに力を入れた。そのくせ、びびりだった私は、いつも姉の後ろをくっ付いて回り、うるさがられていたのだけれど。

 小学校に上がり、初めて返って来た算数のテストは、100点満点中80点だった。それを見せた時の、祖母の言葉は忘れられない。

 「あと2点だったな」と言われた。母の反応がどういうものであったのか、それは忘れてしまったのだけれど。当時の私の生殺与奪権を握っていたのは、母ではなく祖母だった。とはいえ、暴力を振るわれた記憶は、皆無である。祖母は、愛情に溢れた人だった。学校から帰ってきた私に、かぼちゃを煮たり、おむすびを握ってくれた。じっとしていることが嫌いで、いつも、何か仕事を見付けては、動き回っていた。花と畑仕事を何よりも好み、一年中、日焼けしていた。ただ、女の子を育てた経験が無く、他人との比較対照でしか、幸せを確認することが出来なかった、というだけだ。

 祖母を喜ばせることが、母を喜ばせることにもなると、信じて疑わなかった。それが私の思い込みだったと発覚したのは、最近のことである。テストで良い点数を取ったり、絵画や習字で賞状をもらって来ても、母は、大して喜ばなかった。「あ・・・そう」そんな感じだった。後になって理由を問うと、「おじいちゃんやおばあちゃんが、充分誉めていたから、私まで誉めなくてもいいと思って」というものだった。でもお母さん、私は、いつもいつも、ただあなたが喜ぶ顔が見たくて、頑張っていたんだよ。

 学齢に達した私に、祖母は、事ある毎に、「男に負けないように」と吹き込んだ。「男に負けないように勉強を頑張れ。男に負けるな」と。ちなみに、祖母から私への遺言は、「結婚なんかするな」というものだった。

 小6の時に私が受けた、いじめの原因は、知らず知らずの間に、小学生とはいえ、「男の領域」に踏み込もうとした、私に対する反発だったのかもしれない、と、今になって思う。

 けれど、祖母は、私が生まれた時、後継ぎを欲しがっていた。二人育てた経験がある、男の子の。

 摂食障害になり、カウンセリングを受けて、自分の過去を振り返って行くに当たって、導き出された(私なりの)答えがある。

 一つは、摂食障害を通して、愛情を確認していたということ。こんなにも、みじめな、無様な、最低な自分をさらけ出しても、大丈夫?見捨てない?私のこと、嫌いになったりしない?と、訴えかけていた。怒られるのが判っていながら、同じイタズラを繰り返す子供のように。父に言われて、一つ、悲しかったことがある。とある年の、大晦日のことだった。家族が、こたつで、紅白を見ている最中に、私は、裸足で家を飛び出した。不思議と、寒さも冷たさも感じない。雪がうっすらと降り積もった大地を、私は、川に向かって歩いて行った。「何やってるんだ!!」追いかけてきた父に、引き留められた。「お前は、親を困らせて喜んでいるんだろう!!」そうではない。当時の私は、本気で、自分がいなくなってしまうことが、家族の為だと、信じて疑わなかったんだよ。

 支配する母と放任主義の母、私には、二人の母がいた。勿論、祖母と母のことである。

 祖母は、強い人だった。病弱だった祖父に代わって世間を渡り歩き、二人の息子たちを育ててきた、ノウハウを、私たち姉妹に、母に、伝授しようとした。自分が歩んできた道に、自信と誇りを持っていた。そんな祖父母の監視下で、十代で結婚した母は、大変、きゅうくつな想いを味わっていたという。放任主義とは言っても、過疎の村に娯楽がある訳ではない。ママさんバレーや、PTAの会合といったものだった。私が幼い頃の記憶の中の母は、いつもぴりぴりしていて、話しかけるのも怖い雰囲気だった。だから、私は、祖母になついた。

 「私が、おばあちゃんにべったりで、嫌じゃなかった?」という質問に、母は、「うとましく思っていた時期もあった」と言った。その瞬間、目の前が真暗になった。でもね、お母さん、そんな状況をつくり出していたのは、あなただったんだよ。

 私が、幼い頃から抱えて来た、生きづらさの原因が、女性としての生き方を封じ込めて来た、祖母の教育方針にあるのではないか、と気付いたのは、今年に入ってからのことだ。祖母は、「こんなはずじゃない」と思って、生きてきた人だった。目指していた看護師という夢を、戦争で諦めざるを得なかった。結婚はしてみたものの、過疎の村に引っ越しを命じられ、頼りにしていた夫は病弱、女手一つで息子たちを育て、世間の矢面に立たざるを得なかった。そのことの経験にプライドを持って生きてきた、祖母に育てられた為に、私は、女性という自分のジェンダーを、受け入れられずに育っていた。摂食障害の治療の基本である、「ありのままの自分」を受け入れることが出来ずに。

 しかし、である。女性として擁護されるのではなく、男の仮面を被って生きざるを得なかった、祖母の悲哀に思い至った時、私の内で、何かが変わった。

 「傷付いた親が子供を育てるから、子どもも傷付く」

 私は、愛されていなかった訳ではない。
 ただ、皆、必死だったのだ。

 それが、17年間におよぶ摂食障害の末に、私がたどり着いた答えだった。

(2013/12/10 文 紗江さん)