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体験談 ~Vol.10 紗江さんの手記

恐怖の眼科治療と新たな出会い

 「ピンチはチャンス」だという人がいる。チャンスとまでは行かないけれど、私が、過食をセーブするきっかけになったことはある。

 合併症の発症である。

 それは、突然起こった。目の表面の、そして奥の、あまりの痛みに、目を開けていることすら出来ない。頭痛と吐き気が一晩中続き、脂汗を流す私は、母に連れられて、通っている総合病院の眼科を受診した。診断は「ぶどう膜炎」。眼球へ3回注射し、6種類の眼薬を毎日4回点眼した。2週間に一度通院して、視力検査と眼底検査を行った。そうこうしている間に、糖尿病の三大合併症の一つである網膜症が発症した。

 網膜症の治療は、レーザー治療だった。出血した眼底に、レーザーを照射された。痛みはぶどう膜炎に比べれば、少なかったが、突き刺さるような痛みがあり、また、毎週末、週に2回通わなければならなかったのが辛かった。(仕事を犠牲にして私の通院、入院、暴走に付き合ってくれた、母には改めて御礼を言いたい。どうもありがとうございました。)その上、今度は、白内障が発症した。

 「このままでは、これ以上レーザーが打てません。(白内障の)手術をしましょう。」

 主治医のS先生は言った。美人でたおやかな雰囲気を、良い意味で裏切る、肝の座った凄腕の先生だった。白内障は、目の中の水晶体が濁る病気である。その表面の濁りが邪魔をして、出血している場所が特定出来ない、だから、レーザーが打てない、ということだった。

 発症してから入院までの、2ヶ月ほどの間は、恐怖の連続だった。大好きだった本が読めない、テレビが見られない。料理をするにも手もとが見えない。買い物に行っても、財布の中身が判らない。中でも大変だったのは、インスリンの注射と、犬の散歩だった。単位の数値が判らないので、カチ、カチ、カチッという、小さな音に耳を澄ませて単位を合わせた。我が家には現在13歳のE・コッカーがいる。彼を選んだのは私なのだが、その時ほど、彼の真黒な毛並みに、感謝したことはなかった。道路の白線が、見えないのだ。グレーや白色の車の色が、道路と同化してしまう。それらの色のハイブリッドカーの接近に気付かずに、道路を渡ろうとして、クラクションを鳴らされたことも、度々あった。

 2006年の1月末に、私は眼科病棟に入院した。6人部屋。不安と緊張と「ベッドが空いたので1日早く来て下さい。午前中に」と言われたのにもかかわらず、午後まで入院がずれ込んで、待ちくたびれていた私は、不機嫌そのものの顔で、部屋に入った。そこに彼女がいた。Iさんとの、出会いだった。

 彼女は、中々の強者だった。何と、部屋にゲーム機を持ち込み、備え付けの小さなテレビで、ドラクエをやっていたのである。好奇心を抑えきれずに、彼女のベッドに近付き、「イオナズン(ドラクエの呪文)って出来る?」と、聞いたのが、話すきっかけだった。1つ歳上。糖尿病有り。同年代の糖尿病患者に出会ったのは、私も、彼女も初めてだった。

 明るく姉御肌の彼女は、病室内の、ムードメーカーだった。後にも先にも、あれほど笑い声が響いていた病室を、私は、知らない。連絡先を交換しあい、一足先に、Iさんは退院して行った。

 手術は週に一度ずつ、両目行われた。文明の進化とは、怖しいものですね。切れ目を入れた水晶体から、濁ったそれを吸い取り、折り畳んだ眼内レンズを入れる・・・説明を受けた時には、気が遠のきかけたが、S先生は、それを、30分もかからずにやり終えた。翌日、ガーゼを取った時の感動は、忘れられない。霞がかかっていた眼の前が、一挙にクリアーになった。その後もレーザー治療は続き、右目には、ときおり痛みが走るが、7年経った今、私の視力は、日常生活に差し障りが無いほどに回復している。

 2006年には、もう一つの出会いがあった。トリノオリンピック。手術を終えて退院したものの、外出出来ず(手術を終えた私の両目は、光に極端に弱くなっていた。雪の照り返しが特に駄目で、蛍光灯が爛々と光る夜のコンビニや大型家電ショップも然り、である)家に閉じ込もっていた私に、一つの吉報が届いた。荒川静香さんの、金メダル獲得。衝撃的だった。この世の中に、これほど美しいものがあるのか、と思った。それは食べ物のことから頭が離れた初めての経験だった。私は、一日も飽きずに荒川さんの演技をくり返し見つめ、来たるべきフィギュアスケートのシーズンの幕明けを、待った。そして、浅田真央さんの演技と出会った。浅田真央さんの、衝撃的なデビューを、私は知らない。白内障が進んでいて、テレビとは没交渉だったからだ。だから、私が知る浅田真央さんは、笑顔よりも、悲しい顔の方が多かった。

 明けた2006シーズン、私は、安藤美姫さんの、快進撃に目を見張った。オリンピックの時とは、別人のように、引き締まった表情、体付き。次々と高難度のジャンプを決め、情感溢れる演技で、ついには世界女王の座を射留めた。その陰で、銀メダルを得たものの、浅田真央さんは、懸命にもがいているように見えた。私が浅田真央さんのファンになったのは、2007シーズンだったと思う。その時、彼女はジャンプのミスがあったものの、ショートで首位に立った。しかし、同じジャンプのミスをくり返してしまった、という後悔から、彼女は涙を流した。単純に順位を喜ぶのではなく、自分の納得のいく演技を追求して行く、その真摯な姿は、7年経った今でも、決して損われていない。さまざまな困難を経て来た彼女たちが、ソチで集大成の演技を見せてくれることを、私は、切に願っている。

 Iさんとの交流は、退院後にも続いていた。

 同じような経歴をたどって来たのにもかかわらず、Iさんはポジティブだった。病気に正面から取り組み、且つ人生も楽しんでいる。過疎の小さな村に住んでいた私にとって(また、対人恐怖症がある身にとって)電車で彼女の住むK市内に行くのは、ちょっとした小旅行だった。彼女の家に泊まりに行ったり、食事をしたり、映画を(『武士の一分』だった。手術後の私たちにとって、徐々に視力を失って行く主人公の姿は、臨場感がありすぎた)見に行ったり、泊まりがけで他所の県に行き、私が好きなアーティストのライブに、出かけて行ったりした。(私が一人で新幹線に乗れるようになったのも、彼女のお陰だ。)電話は毎日。内容は、彼女が貸してくれたゲームのことや、他愛のない世間話。30になって、私は、ようやく、世間並みの楽しみを享受することになる。今までは、滅多に起きなかった『低血糖』という症状が起きるようになった。(インスリンが効き過ぎて、血糖値が80以下になり、ひどい場合は昏睡を引き起こすこともある。)それも、ほぼ毎日。インスリンの単位も減り、全てが上向きになるかと思われた。

 しかし、原因不明の吐き気に、襲われるようになったのは、この頃からだった。吐く。とにかく、吐く。固形物を全て吐き出し、唾液が胃に溜まると吐き、終いには、度重なる胃酸の逆流で、食道がただれ、茶色い血を吐いた。診断は、糖尿病の合併症の一つである神経障害。絶食と点滴と投薬治療で、1週間ほどで退院出来るのだが、いつ症状が現れるか判らない。(昨年は、5回入院した。)結果、今の私は、6種類の精神科の薬の他に、3種類の糖尿病科系の薬を、飲むことになった。

 Iさんが言った言葉で、印象的なものがある。それは「諦める」という言葉だった。初めて聞いた時には、意味がよく判らなかった。

 私にとっては、マイナスなイメージしか無く、むきになって食ってかかって行ったような気がする。けれど、精神科のU先生に、「あなたは病気(糖尿病)を受け入れていない」と言われ続けて、その言葉が、「受け入れる」と同意語であったことに気付いた。

 「無理なことは無理だって諦めて、先に進むしか無いんだよ」様々な経験をくぐり抜けて来た、彼女だからこその言葉だった。今は、疎遠になってしまったけれど、Iさん、あなたの生き方は、今も私の目標です。

 疎遠になっていた自助グループに、再び行くことになったのは、震災がきっかけだった。震災後、避難を余儀なくさせられた、我が家だったが、それは逆に、自助グループの会場に近付くことになった。発症当時の凄じい食欲は抑えられていたが、うつの波と自傷行為は消えずに残っていて、それを解決させたかった、同じ悩みを持つ仲間の言葉に、耳を傾けてみたくなったのである。

 久々に行った、そこは、様替わりしていた。会を訪れる人々―かつては、本人と家族のミーティングは別れていた―の減少によって、会が一つに統合されていたのだ。そこでは、参加者の発言に対して、スタッフの方々が、アドバイスをして下さる。

 摂食障害を発症した、お子さんの悩みを、涙ながらに語る親御さんと、真摯に受け止める先生方の話、並びに母の発言を聞いている間に、私の内で、何かが変わり始めた。伝えたい、訴えかけたいという気持ち―それは、他ならぬ、母に対する想いだった。私は、数年前から、精神科に通う傍ら、カウンセリングを受けている。その時の経験が、一つに重なり合う感じがした。